安倍首相70年談話は、国民のためというより自分のため。出す必要のなかった談話であった。

安倍首相による70年談話について、昨日のブログでは、まるで教科書的に総論的に反省を述べたが、お詫びについては、歴代の政府がおわびを行ってきたと述べ、自分達もそれを引き継ぐと述べて自分の言葉では「おわび」を言わなかった。これでは、30分、1時間掛けても、おわびの気持ちは感じられない。

中国、韓国が安倍首相と敵対し、嫌っているのは、正に安倍氏の談話に本当のおわび、反省が感じられないからである。日本の国民が信用していないのに、中国、韓国の人が信用するはずがない。

昨日の首相談話を受けて、各紙の論評を比較した。この中で対極をなすのが、やはり読売新聞と朝日新聞であった。

読売新聞は、以下のタイトルで社説を書いている。政府の御用新聞であるので、『「前向きに評価出来る』、『 ドイツ首脳の言葉を一部踏襲したもので、村山談話などの「おわび」に相当する表現だ。首相の真剣な気持ちが十分に伝わる。』と書かれている。ゴマすりマスコミとはいえ、よくぞまあ、恥ずかしげもなく政府をヨイショしているものだ。首相の真剣な気持ちが十分に伝わるとはよく言ったものだ。彼の口からは、そんなことは全く感じられない。それは、彼の日頃からの言動で、もうオオカミ少年ならぬオオカミ親父は信じていないからである。


読売新聞社説:戦後70年談話 歴史の教訓胸に未来を拓こう
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20150815-OYT1T50003.html
 


読売新聞と対極の新聞が朝日であった。朝日は珍しくはっきりと安倍談話を批判している。ある意味、名文である。そこには、怒りさえ感じられる。朝日にもこのような文を書く論説者がいて、それを承認した社があることは、救われる。社説には、

『いったい何のための、誰のための談話なのか。 この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。』に現れている。はっきりと村山談話から後退していると述べている。これは、村山元首相自身が痛烈に批判している。私の談話を引き継いだものではないと。

社説の最後の結文に、安倍談話の本質が書かれている。

『 出す必要のない談話に労力を費やしたあげく、戦争の惨禍を体験した日本国民や近隣諸国民が高齢化するなかで解決が急がれる問題は足踏みが続く。いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。その責めは、首相自身が負わねばならない。』正に御意。


朝日新聞社説:戦後70年の安倍談話―何のために出したのか

2015年8月15日(土)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html?iref=comtop_pickup_p

 いったい何のための、誰のための談話なのか。

 安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。

 侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワードは盛り込まれた。

 しかし、日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた。反省やおわびは歴代内閣が表明したとして間接的に触れられた。

 この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。

■「村山」以前に後退

 談話全体を通じて感じられるのは、自らや支持者の歴史観と、事実の重みとの折り合いに苦心した妥協の産物であるということだ。

 日本政府の歴史認識として定着してきた戦後50年の村山談話の最大の特徴は、かつての日本の行為を侵略だと認め、その反省とアジアの諸国民へのおわびを、率直に語ったことだ。

 一方、安倍談話で侵略に言及したのは次のくだりだ。

 「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」

 それ自体、もちろん間違いではない。しかし、首相自身が引き継ぐという村山談話の内容から明らかに後退している。

 日本の大陸への侵略については、首相の私的懇談会も報告書に明記していた。侵略とは言わなくても「侵略的事実を否定できない」などと認めてきた村山談話以前の自民党首相の表現からも後退している。

 おわびについても同様だ。

 首相は「私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。

 確かに、国民の中にはいつまでわび続ければよいのかという感情がある。他方、中国や韓国が謝罪を求め続けることにもわけがある。

 政府として反省や謝罪を示しても、閣僚らがそれを疑わせる発言を繰り返す。靖国神社に首相らが参拝する。信頼を損ねる原因を日本から作ってきた。

■目を疑う迷走ぶり

 謝罪を続けたくないなら、国際社会から偏った歴史認識をもっていると疑われている安倍氏がここで潔く謝罪し、国民とアジア諸国民との間に横たわる負の連鎖を断ち切る――。こんな決断はできなかったのか。

 それにしても、談話発表に至る過程で見せつけられたのは、目を疑うような政権の二転三転ぶりだった。

 安倍氏は首相に再登板した直後から「21世紀にふさわしい未来志向の談話を発表したい」と表明。村山談話の歴史認識を塗り替える狙いを示唆してきた。

 そんな首相の姿勢に中国や韓国だけでなく、米国も懸念を深め、首相はいったんは閣議決定せずに個人的談話の色彩を強めることに傾く。

 それでは公式な政府見解にならないと反発した首相側近や、公明党からも異論が出て、再び閣議決定する方針に。節目の談話の扱いに全くふさわしくない悲惨な迷走ぶりである。

 この間、国内のみならず欧米の学者も過ちの「偏見なき清算」を呼びかけた。世論調査でも過半数が「侵略」などを盛り込むべきだとの民意を示した。



 そもそも閣議決定をしようがしまいが、首相の談話が「個人的な談話」で済むはずがない。日本国民の総意を踏まえた歴史認識だと国際社会で受け取られることは避けられない。

 それを私物化しようとした迷走の果てに、侵略の責任も、おわびの意思もあいまいな談話を出す体たらくである。

■政治の本末転倒

 国会での数の力を背景に強引に押し通そうとしても、多くの国民と国際社会が共有している当たり前の歴史認識を覆す無理が通るはずがない。

 首相は未来志向を強調してきたが、現在と未来をより良く生きるためには過去のけじめは欠かせない。その意味で、解決が迫られているのに、いまだ残された問題はまだまだある。

 最たるものは靖国神社と戦没者追悼の問題である。安倍首相が13年末以来参拝していないため外交的な摩擦は落ち着いているが、首相が再び参拝すれば、たちまち再燃する。それなのに、この問題に何らかの解決策を見いだそうという政治の動きは極めて乏しい。

 慰安婦問題は解決に向けた政治的合意が得られず、国交がない北朝鮮による拉致問題も進展しない。ロシアとの北方領土問題も暗礁に乗り上げている。

 出す必要のない談話に労力を費やしたあげく、戦争の惨禍を体験した日本国民や近隣諸国民が高齢化するなかで解決が急がれる問題は足踏みが続く。

 いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。

 その責めは、首相自身が負わねばならない。



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この記事へのコメント

2015年08月17日 00:57
かっちさんの解説と朝日新聞の社説で分った。
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もう、この御仁に何かを求めてもダメだということ。(トホホ)

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