菅谷さん、まずはおめでとう。しかし日本の法治国家は本当に大丈夫か?

このブログでも、何回か菅谷さんの名前を書かせて頂いたが、今日、宇都宮地裁で、検察から、朝日新聞WEB版から引用させてもらうと、以下のように謝罪があったという。これで、まずは裁判所の判決を待たずに、無罪が確定したことになる。まずは、おめでとうと言いたい。

検察側は論告で、「無罪が言い渡されるべきことは明らか」とした上で、「真犯人ではない菅家さんを起訴し、17年半にわたって服役させた。取り返しのつかないことを招き、検察官として申し訳なく思っている」と述べ、深々と頭を下げた。さらに「今後、二度と繰り返さないようにしたい」と語った。

しかし、当時の取り調べの検事からの、直接の謝罪はない。何回も菅谷さんが謝罪を求めても、深刻に受け止めているという言葉だけであった。鈴木宗男議員が、政府に対して本件の検事の謝罪について、意見を求めたが、政府はその検事はもう辞めており、辞めた人に対して、どうこうすることは出来ないと回答している。

しかし、そういうものでもないだろう。所謂、普通の会社の社員が辞めた場合とは違う。社員は、その時期における労働の対価として給料をもらう。その後は、特段悪いことをしていない限り責任はない。

しかし、裁判に関わる事件は、その事件が決着するまで、組織、つまり国として責任を負う。そこで、人の人生を活かすも殺すも出来る権力を行使する者は、他人の人生を決める覚悟と倫理観をもって臨んでくれないと堪らない。

特に、逮捕、起訴、公判維持まで出来、また数十万の有権者の信任を受けた政治家までも逮捕し、裁判に掛けることが出来る地検特捜部はなおさらである。

それだけに、通常の検事以上に、自分を律し、且つ人権に対して高邁な倫理感を持たなければならない。しかし、いろいろな事件の取り調べの事態は、正義という仮面をかぶって、仮面の下では、まるで人間性を感じない人格となっているように見える。勉強ばかりして、世間を知らなく、人を思いやる一般的な常識がないようにも見える。

検察だけについて述べたが、もう一つ、もっと強く言わなければならないのは、裁判所の裁判官である。今回の菅谷氏が、2008年2月13日再審を申告した宇都宮地裁・池本寿美子裁判長は、十分な証拠があったのにも関わらず、再審請求を棄却したのである。

この結果、許せないのは、この再審請求棄却によって菅谷さんの無意味な刑期を引き伸ばしだけでなく、真犯人を逃亡させつづけ時効にしてしまったことである。

これは、非常に罪が重い。また被害者の少女自身浮かばれない。被害者遺族もどこに、この怒りをぶつけたらいいかわからないと思う。池本裁判官が、現在どこの裁判所にいるかわからないが、本件について、どう思っているか聞きたいものである。捜査した警察官も同じであるが。

裁判官になる人、検事になる人は、無罪の人を、法の下で、人生を抹殺させることは、悪いことをした人を逃がすより、もっと社会的に罪が重いと、司法の勉強の中で、基本中の基本として教わると聞く。

悪いことをして、ノウノウと暮らしている人はたくさんいる。しかし、無実の人を社会的に抹殺する、無実の人を牢屋に入れる、無実の人を死刑にすることは、もっと恐ろしい。絶対、在ってはいけない。

よく映画で出てくるような、正義感をもった検事のイメージでやられてはこまる。なぜなら、映画は正に物語で筋が決まっているからいいが、かってに、捜査対象を何が何でも悪として物語を作られては堪らない。

先も紹介したが、東京地検特捜部によって逮捕され、今最高裁に上告中の元福島県知事の佐藤栄佐久氏のブログ記事を以下に引用させて頂いて、健全な民主主義の意義を考える必要がある。

『その中に検察の体質をあらわすものとして看過できない発言がありました。元東京地検特捜部長の熊崎勝彦氏の言葉です。「白を黒ということがあってはいけないが、黒を決して逃すことがあってはいけない」。

これは、大変大きな発言です。「黒を決して逃すことがあってはいけない」という悪人を探す「意志」はともすれば正義感の表れのようにも聞こえますが、とても危険な考え方です。

熊崎氏は「治安の維持のため」と理由を述べていましたが、まさに人々の不安と不満に起因する象徴、はけ口としての「犯人探し」への欲求が強い場合、さらには私の事件の際に一部報じられたような検察官僚としての出世欲と結びついた場合、なんとしても犯人を挙げなければならないという「意志」は、罪無き人を無理やり犯人に仕立て上げることになります。

また長銀事件や私の事件のように犯罪自体が無い空っぽの場所に無理やり犯罪を作り上げ、本来平穏に暮らしているはずの無辜の人々に罪人というレッテルをはり、社会から抹殺することになります。

人間は無謬ではありえないので、熊崎氏の言葉の前半と後半は、現実的には相容れない考え方です。黒を須く捕らえようと思えば、その中に白が入ってしまうことは不可避だからです。
「黒を決して逃すことがあってはいけない」は近代司法の考え方を否定する言葉といえます。「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」。これは熊崎氏の言葉と真っ向から対立する重要な概念です。

推定無罪の原則は、フランス革命までさかのぼり、西欧が数々の流血の歴史を経て確立しました。なぜ血を流してまで守らなければならないのか、この言葉がどれほど大切かを噛みしめるのには、無実の菅家さんが失った人生の大切な年月を思えば容易なことと思われます。また菅家さんに決して謝罪をしなかった元検察官はその「正義」の無責任さを体現しているのではないでしょうか。

罪のない人がなぜ自白するのか。そこで武器として使われるのが、相手の人格を否定し、周りの者を生活を脅かすことをほのめかす、マフィアまがいの精神的拷問です。熊崎勝彦氏の言に見え隠れしている、黒を逃がさないために、正義のためには何をしても許されるという、誤った信念。拷問と国民の負託を受けた国会議員の逮捕と失脚を狙った印象操作、そこにあるのは、人権と民主主義の否定です。』


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